1. 黒河省の正面(ソ連ブラゴエチェンスク)と省内一般情勢
(1) ソ連軍の行動
独ソ開戦以来、静ひつを保ってきたソ連軍はドイツの降伏後、国境に兵員を増強し、特に七月下旬頃より、陣地を構築、補強を行い、国境前線に亘って日に日に
緊張の度が加わってきた。また、黒河市黒竜江上の中の島に於いて諜者の侵入事件等、管下各国境警察隊管内に於いても同様の事件が頻発してきた。
(2) 孫呉駐屯部隊の行動
相次ぐ南方の敗戦に伴い、関東軍の南方への抽出による兵力の減少のため、北方防衛線をチチハル、ハルピン、牡丹江、東安の線に定めた。その結果、昭和18年3月孫呉駐留の第四軍司令部はチチハルに移動、孫呉、駐屯の第一師団(現
役兵)はフィリピンレィティ作戦に参加のため、移動。留守師団は根こそぎ動員で召集された。
未教育補充兵で編成、国境線に配置されていた国境監視隊も、整理され、わずか鳥雲県城、勝武屯(孫克県)張地営子(アイゴン県)に配置されているにすぎなかった。
(3) 黒河特務機関、黒河憲兵隊の行動
両機関共ソ連の対日参戦については、適確な情報を得ておらず、現在日ソ中立条約が有効であり、万一ソ連軍が侵攻するとしても10月頃との見方をしていた。
なお両機関は8月10日午後2時軍の指示に従い、省当局に対し何等助言することもなく家族と共に孫呉に避難して行った。
(4) 民衆の動向
一部中国人の間にソ連軍の侵攻、日本の敗戦等の噂は流れていたが物資買溜め、預金の払い出し等もなく表面上極めて平穏であった。
2. ソ連の対日宣戦布告
昭和20年8月9日午前4時頃アオゴン国境警察本隊長より警務庁長に対し次の報告があり、本日、早朝より対岸ブラゴエチエンスクに於いて、一般市民の姿が見え
ず軍の行動が急に激しくなり何か事件が発生した状況である。
次いで同盟通信黒河支局より省公署にソ連より対日宣戦の布告があったとの通報があった。
3. 省公署の対応
右の通報により省長は省幹部を非常招集し、まずソ連の対日宣戦の事実を確認するため孫呉第一師団司令部と黒河特務機関に照会、軍では上級司令部から何等通報もなく詳細不明の回答。
(注)全く予期しない、ソ連の対日宣戦に関東軍司令部も狼狽し管下部隊に適切な命令を下せることができなかったのではないか?
この時点で黒河市にソ連軍は侵入せず。
省長(村井矢乃助元陸軍少佐故ありて軍を退役後、帝大法学部を卒業満州国官吏となる)は直ちに科長以上の防衛会議を開催(この会議に王某民生庁長欠席)次に項目を指示。
(注)後の調査によれば王民生庁長は国民党の秘密党員であること判明
(1)各庁長科長はかねて非常事態に対する計画に基づき速やかに処置すること。特に在留日本人の避難に必要な交通機関、食糧の保存を確認をすること。
(2)総務科長は、孫呉鉄道司令部に避難列車を要請すること
(3)警務庁長はソ連軍の動向を速やかに報告すること、黒河市内の静ひつを保持するため警備を厳重にし、在留日本人の避難完了するまでソ連軍の侵入を極力
防止すること、避難に必要な車馬を徴発準備すること、特に黒河駅、日本人の集合地である黒河国民小学校周辺の警備を厳重にすること。省長右の指示を与えた
後、家財をトラックに積み軍との連絡の要ありと称し孫呉へ避難後の指揮は省次長中村巽一氏がとる。
4.警務庁の対応(警務庁長正岡輝氏、シベリヤ抑留死亡)
(1)警護計画に基づき防空通信室の開設作業開始、一応要員を配置したが各本隊との無電は通信不可能となり、要員も避難準備のため動揺し何等成果もなく解散する。
(2)管下各国境本隊長に対しかねて計画中の警護計画に基づき行動するよう指示。
(3)警務庁内の重要書類(特に分室)の焼却
(4)8月10日まで孫呉県公署に集結すること。
(5)アイゴン国境本隊長は在留日本人避難完了まで特に江岸線を封鎖し、後 孫呉に集結すること。前記、防衛会議開催中,漠河国境本隊長より次の無電入る。
本日早朝漠河県国境全域に亘りソ連軍の攻撃を受けた。管下中小隊の状況は通信途絶し不明なるも本隊は重要書類を焼却し無線機を破壊し国境警察員家
族と在漠河街日本人とその家族と共に後方に撤退後、ノンバク街道に向かう。これが最後の通信なり各位の武運長久を祈る。
右と同主旨の電文が鴎浦、こま、鳥雲各県警察本隊長より省呉宛発信されたというが省で未確認。
5 在留日本人の避難
在留日本人は、8月9日午後3時より孫呉に向け避難開始を防衛会議で決定。その決定を各町内会を通じ、各戸に通知。集合場所は黒河国民学校。
省に於いて、前記避難列車を手配し。同日午後6時より汽車による避難が始まる。汽車に乗車できなかった者はアイゴン県で集めた馬車により街道、軍用道路を
利用して孫呉に向け避難。8月10日避難の1部はソ連飛行機の銃撃を受ける。
この在留日本人の避難誘導はアイゴン警察本部が担当。
6.日本人引揚後の黒河街
8月9日、日本人引揚後一部中国人の掠奪があったが黒河警察隊により鎮圧された。同日午後11時頃ソ連から2発位の砲弾が町に打ち込まれたため、一部火災が発生した。
(注)私が昭和61年黒河を訪問した時市民の話では、ソ連軍が侵入し暴行略奪放火したとのことであった。
7.孫呉の於ける警察隊の行動
(1)孫呉に撤退してきた正岡警務庁長以下警務庁職員並びにアイゴン、孫呉、孫克各県警察隊員(満系共)大部分の集結が終わったのが、8月11日午前中、
黒竜江岸にある交通不便の小分隊、開拓村民を管轄していた、孫克県松樹溝中隊員は開拓村民の避難誘導のため集結はできず行動の詳細は不明であった。
(松樹溝警察中隊長長山城太郎氏)
松樹溝中隊長は開拓村民200余名を警護し1カ月以上も小興安嶺をさ迷い、その半数以上を失い9月下旬頃竜鎮駅に避難したという。
(2)警察は一応孫呉県公署に本部を設置し、対策を協議し、取りあえず軍の指示のあるまでは孫呉周辺を警備することに決定。
(3)8月11日夕刻よりソ連軍はホルモシン地区に上陸、アイゴン陣地を攻撃する。ホルモシン中隊長杉尾彪(別科8期生、私と同期)は隊員家族と共に前日孫呉に到着する。
(4)翌12日軍より警務庁官に対し南孫呉を守備の命令があり。
ここに於いて警務庁長は警察大隊を編成、南孫呉の守備につく。
大隊長は綿谷武雄(孫呉国境本隊長)アイゴン陣地攻撃中のソ連軍の戦車部隊が南下しつつあり。
(5) 8月14日警察力でソ連軍の進攻は防ぎ得ないから、
警察隊を解散し、軍の指揮に入るよう命令。
(6) 同日午後3時警務庁長は全警察職員を孫呉県公署広場に集合を命じ次の   要旨の訓示さる。
本日、軍の命令により、ここに警察大隊を解散する。警務庁長の指揮権は本   日をもって終わる。只今より軍の指揮下にはいる。
満系警察官諸君には建国以来五族協和の精神の則り日本に協力され、ま    たこの度の戦いについても我々と行動を共にされた諸君には真に感謝の念に    耐えない。
我々はこれより日本軍の一兵士として戦いに参加するが、諸君は万難を拝し   て家族の元に帰り再生の道を万歩まんことを切望する。重ねて今日までの協    力を感謝する。
なお日系警察官諸君は建国以来、民族協和の中核として生命を王道楽土   建設のために国内の治安確保とまた満ソの国境警備に全精力を傾けてきた
が、ことここに至っては万止むを得ない、また家族のことを思うと断腸の念を得ないが何れ再会の機会を念じて止まない。軍の指揮下に入っても十分に健康に   注意され再び祖国の土を踏まんことを祈る。
7. 満系警察官は解散それぞれ自由行動をとり私ども、日系警察官は孫呉205部隊(部隊長太田大佐)の各大隊に分散編入され孫呉陣地に入り一部(第6中隊)戦闘があったが8月18日部隊前で武装解除され、北孫呉陸軍官舎に収容さる。9月頃より作業大隊を(1000名)編成、入ソし、各地の捕虜収容所に収容さる。
あとがき
黒河省国境警察隊の最後については次の手記がある。
(1)呼ま国境警察隊撤退行録          呼ま会
(2)興安嶺死の脱出記             増井鴎浦本隊長
(3)鳥雲城の人々  鳥雲城の落城       元鳥雲本部隊長
加藤直方
(4)漠河国境警察の最後            石村省三
(5)王明貴事件                石村省三
(6)黒河区隊の行動              友野正
黒河省警務庁歴代警務庁長並びに終戦時各県国境警察本隊長一覧表。
初代警務庁長   竹内節雄    省都警察庁副総監へ
二代警務庁長   飯塚富太郎   錦洲省警務庁長へ。シベリアで病死
三代警務庁長   今川善高    奉天警察庁副庁長へ
四代警務庁長   正岡 輝    シベリアで病死
琿 国境警察本隊長  風間正造 シベリアで病死
孫呉 国境警察本隊長  綿谷武男 帰国後、病死
遜克 国境警察本隊長  佐藤敬止 シベリアで病死
呼瑪 国境警察本隊長  安藤儀一  呼瑪在留日本人を引率し、避難中                  嫩江県胡莫屯付近で暴民に襲われて殉職
鴎浦 国境警察本隊長  増井直衛  鴎浦在留日本人を引率し、嫩江まで避                難し帰国
漠河 国境警察本隊長 武方寅乃進 漠河でソ連軍の急襲を受けて殉   職
鳥雲 国境警察本隊長  宇井 寧  在日本軍と共に在留日本人を引率し避                難中力つき果て竜鎮駅を目前にして殉職

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