黒河省・黒河街の戦前のお話等記録された記事の一部分や、販売されなかった著書から記載します。

台風30号フイリピンのレティ島を直撃 

2013年12月10日発刊 石川喘息友の会「わかば会」機関紙より
宮岸 清衛
                           2013-11-25

先日台風30号がレティ島のタクロバン・カンキポット等聞きなれた地方が惨事になっています。はぁ!故小沢小善治さんのレティ戦の悲劇を色紙に描いのを紹介します。
 昭和41年に治安の悪い現地へフイリッピン軍と官憲に護衛されて取材したのです。
 小沢さんは満州国黒河省公省広報室勤務(満州国政府委任官)であり父は分室(暗号無線傍受、解読等)勤務であり緊密な関係にあり、戦後ソ連軍捕虜になり昭和36年に帰国してからも親密な交際を続けていましたが平成20年91歳で靖国へ祀られました。
 小沢さんは第一師団司令部が任地の山梨県出身です。
 旧満州国孫呉(そのあとに、第123師団が出来、昭和20年8月14に父が入隊した)に有った第一師団は昭和19年8月に南方の戦況悪くフィリピンに移動命令が出され、10月20日マッカーサー率いる米軍がレイテ島東部タクロバン近くの海岸に上陸したのにあわせ第1師団1万3千人の将兵が 11月1日西部オル モックに上陸した11月5日に東部と西部を結ぶリモン峠で戦闘に入った。
その第一師団で戦死した子息と満州談話室でメル友となり、毎年「関東喘息患者会の集い」の都度、「満遊会」と称して孫呉・北安・黒河等に関係ある引き揚げ者がAIさん宅(30階室)で満州を懐かしみと惨事を後世に伝え戦争の無い世界を願う集まりをしています。
レティは太平洋戦争で世界最大の海戦に決定的な負け戦になった日本はレティ沖海戦で戦艦武蔵など3艦、空母4艦、巡洋艦9艦、駆逐艦6艦の他、輸送船等が全滅。くしくも70年目に日本の海上自衛艦3艦がレティ湾に停泊し災害救援についた!
陸軍では制空権を米軍にとられ補給の無いまま40日間に渡り米軍を峠で阻止したがセブ島に約800名が転進し残りはレイテの土に 至ったセブ島にて8月15日まで抵抗を続けた停戦命令に従い米軍と停戦式を行い武装解除に至った。
日本に生還したのは師団の3%の約400名である。実に97%が戦死し他の師団では全滅した隊もある。
レイテ島の戦死者は他師団を含めると約8万人、多くが病死・餓死と思われる。
レイテ島には今でも第1師団の慰霊碑が二つを含め数十の慰霊碑が激戦地に点在する。
最近は戦友はもちろんのこと遺児も高齢になり巡拝の人数は減ったが未だに毎年巡拝団が訪島している。
今回の被害はタクロバン市近郊の被害しか確認出来ていない。
日本の援助で作られた東洋一の火力発電所があるがヒ素などを含む排水が田畑に流れ込んだ可能性もある。

レイテ痛恨の画集                小澤 小善治

謹んで御霊に捧ぐ「レイテ痛恨の画集」レイテ・セブ島調査スケッチより
06レイテ島にて.jpgレイテ島にて
07タクロバン.jpgタクロパン
08瓦礫.jpg瓦礫
09許してくれ.jpg許してくれ
10玉砕地点.jpg玉砕地点
11雑草.jpg雑草
12石.jpg
13草原.jpg草原
14苔.jpg
03小沢小善治案内.jpg宮岸清衛様へ

我が青春の地を行く                俳優   森繁 久弥

国境をみて見よう
 当時の日本では樺太に国境があったが、ヨーロッパのように国境に囲まれているという実感はあまりなかった。
そこで私、国境とはどのようなところか見つけに行こうということになり、録音機を担いで出かけて行た。
 国境は長かった。鉄条綱が張ってあるだけの国境がずっと、はるかかなたまで続いていた。
これと平行として、約一町ほどの間隔をあけてもう一本、鉄条綱が続いている。
この間満州とソビエトとの中間地帯である。

「黒龍氷原を注ぐ」
 満州とシベリアがなす国ざかい、北酷寒の国ざかいに、白き鱗もて掩れたる巨大なる龍が横たわり、静かなる冬眠をむさぼっている。
 此のしろき鱗の下には黒く碧きその龍の血が、満州幾千年の歴史を脈打せ今も尚西おり東へ渦をまいて流れている。
 人之を呼んで黒龍江と云う。又アムールと呼び、又アラ・ムリと呼ばれた。アラ・ムリと呼ばれた。
 アラ・ムリとは黒き水の意味を伝え、古くこの江を神聖なる流れとして伝える由。
 今、此の東アジアに、北氷洋を枕にどっかりと横たわるこの黒龍を地図に見れば四つの大河が支流をなし、それはあたかも四本の大きな前足と後ろ足を作る。
先ずその脚の一つはウスリー江であり、又一つは松花江である。

共にこの両足はその爪の中に、一つはウラジオストックを握り、一つは新京(長春)を握っている。

 さて後ろ足はシルク江となり、その足首はジンギスカン出生の名だたるオノン江となってシベリヤに突き出し、あと一足はアルダン江となり、はてはハルハ江となって、満州の西の国ざかいをなす。・・・・・・・

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花火(煙火)

 今から丁度60数年年前のお話です、いや実話です。其処はソ連の日本海に面したアムール川、河口から1500kmの上流にある満州国黒河の街は、ソ連の毒牙を四六時中警戒する昭和19年の夏、戦況不利な中、花火大会を行いました。
 それには、こんな歴史がありました。(満蘇共同納涼会)

『康徳4年(昭和12年)の盛夏であった。満州国は王道国家だ。王道の慈光は僻邊にも輝くのだ。此の黒河の明朗さを見てくれと土地の有志達が発起となり、街の北端を流れる黒龍江の中之島を利用しての納冷打ち上げ花火、仕掛け花火をやったのに始まる。処がこちらで花火大会の準備をやっているのを見た対岸では、どう勘違いしたものか、軍隊を総動員して市内外を警備し、戦車を引き出す、対岸に砲列を敷いて対陣の準備をするといふ慌て方で、市民の打ち上げる花火がパァーン、ドドーンと闇夜の高天に五彩の華を散らす度に今にも実弾が飛んで来るのではあるまいかと、不安な夜を明かしたものだが、以来毎年の行事となり、今では稍安心し官憲も警戒を解かんとする気分に迄進んだのである。処が昨年は盟邦日本帝国の皇紀2600年だから更に景気よくやろうと云ふので、例年の型を破って数千円を投じブラゴエスチェンスク市民への案内状も発動機船で持って行けば5分間、大きなメガホンで呼びかけても良い距離だがさうもならないので、沢山のプログラムを入れた案内状をハルビン~満州里経由で郵送したのである。時は7月23日。黒河の盛夏。太陽の西山に没するを待って第一弾、浮かび出たのが「日満両国旗」700mを隔て数万のブラゴエスチェンスク市民と数万の黒河市民が一本の河を挟んで、粋をこらした此の花火に一夜の納冷会を明かしたのであるが、この時は流石の蘇連側でも戦車も出さず砲列も敷かなかった。』

 昭和19年夏7月ソ連側が花火の打ち上げをしました。日本の花火とは少し異なり打ち上げられた花火は赤色が少ない薄緑色した丸い玉が転がるようなものでした、薄緑色はあたかも幽霊の火の玉のようでした。

 一ヶ月程たった昭和19年晩夏9月。私は黒河国民学校3年生、父と母と3人の弟妹達は家族と隣組の人達は誘い合って花火大会見物のために、南崗屯の官舎から黒龍江へ約1kmの道のりを、子供達は親にまつわり付きながら歩いて行きました。

江岸には沢山の満州国民が思い思いの場所に陣取り、打ち上げられる花火に歓声をあげていましたが、今日の花火のように続けて打ち上げるられなかったようで、子供達はぐずつきだし、危ない筏に乗ったりしたため、父は私達を江岸にあるロシア、レストラン(サハリアン)に連れて行き、花火が良く見える窓際の席でアイスクリームを食べながら大満足した記憶があります。

 此の満州国側の花火大会の遅れは、従来民間が行っていましたが戦争の激化により、民間では花火を購入出来ませんでした。そこで、急虚黒河省長は対ソ宣伝工作のため日本から花火を受領の目的で、小沢小善治(満州国政府委任官)を単独で派遣し花火の製造者(福島市、長尾幸七火薬店)から花火師の手配と共に満州の黒河まで花火を密送したそうです。

何時の時代にも人の心を癒します。

インターネットを開いて、夜空をクリックしてみて下さい。

ボリュームを上げて目と耳で打ち上げ花火を楽しんで下さい。

黒河警務庁最後の行動

制作中



榎ウメ子の黒河からの逃避行

制作中



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