父 宮岸 清太郎 の履歴   (明治44年4月14日生)
本籍 石川県河北郡川北村字木越タ280番地
明治 44年4月14日誕生      S26年1月26日  死亡  享年41歳
大正
6年 4月 大浦小学校入学
11年 3月 大浦小学校卒業
13年 3月 大浦小学校高等科卒業
13年 4月 金沢逓信講習所入学
14年 3月 金沢逓信講習所卒業
14年 4月 金沢郵便局電信科勤務
昭和
6年4月21日 依願通信事務を免ス(自己便宜)
この期間の詳細不明
7年 1月10日 電信第一連隊に入営(現役兵)工兵二等兵
7年 7月10日 工兵一等兵
7年 1月11日 下関港出発
7年 1月12日 朝鮮港上陸
7年 同日 鮮満国境通過
7年 11月20日 帰休除隊(新京)
7年 11月30日 現役満期
7年 12日 1日 予備役編入
8年 12月 1日 (康徳4年) 中華民国河北省古北口(こほっこう)国境警察隊勤務(警士)(外務省)、大閣鎮(だいかくちん)画像はこちら
湯子廟(たんずびょう)
9年 9月18日 結婚(古北口住居)(百々和枝)
10年 8月12日 長男 生(清衛)(日本)
12年 9 黄崖関(こうがんかん)分駐所(警長)
12年 10 興隆(こうりゅ)弁事処(べんじしょ)(税関)
12年 12月14日 長女 満里子 高木幸一・シズと養子縁組
愛媛県宇和島市栄町
13年 4月 (康徳5年) 満州国間島省汪清縣天橋嶺森林警察隊勤務
14年 9月11日 (天橋嶺森林警察隊官舎)  次男 生(清介)
15年 4月 満州国間島省汪清縣張(ちょう)家店(かてん)森林警察隊勤務画像はこちら
15年 12月30日 (張家店森林警察隊官舎)  次女 生(昌子)
16年 4月1日 満州国間島省汪清縣張(ちょう)家店(かてん)
森林警察隊勤務(警尉補)
16年 9月 (康徳8年) 満州国龍江省大賚省公署勤務賚画像はこちら
17年 4月 大賓小学校入学    長男 清衛
17年 11月1日 満州国龍江省大賚(だーらい)縣大賚省公署勤務    (警尉)
18年 9月19日 (大賚街官署胡周縣公署官舎第17号)
三男 生(清彦)
19年 7月 満州国龍江省チチハル警務庁勤務
チチハル宮前小学校へ転校  清衛
19年 9月 (康徳11年) 満州国黒河省公省黒河警務庁勤務(警佐)(無線室)
(無線室は別棟で地下室にもあり、日系3名・
主な業務は無線の防諜、探調査、解読)
(刀帯の刀吊が青から赤へ)
(満州国黒河(こっか)省黒河南崗屯(なんがんとん)省
公署官舎第155号)
黒河小学校へ転校(清衛)
(@黒河省長 村井 矢之助・ 警務庁長 正岡 輝 )
20年 8月 9日  昼頃夫は馬で帰宅して、最小限の身の回り品を持って黒河駅へ  行け、隣り近所へも伝えろ、そして又役所へ・・・汽車は満員、夕方遠く黒河の街は赤  赤と燃えていた、まるで“満州の赤い夕陽”のように!!
ブラゴエスチェンスクソ連方面の空は赤く特に黒河街の上は真赤に燃えていた。夜中、汽車は孫呉駅に止まる夫が無線機を背負い、朝鮮人の医者に清衛を診察させ た、・・・途中で死ぬかもしれない??と・・しかし百日咳は治りつつあった。夫は此処の連隊に合流する、お前たち5人は、新京の安田へ行け、南へ、日本へ
20年8月14日  関東軍第4軍123師団へ編入(孫呉)(黒河警察部隊として)無線機は陣地の師団へ、砲撃激しく警察隊の装備で応戦出来なかったが18日夜から斬り込み隊を編成したが、哀れ・・夫も夜出撃予定だったが、
8月18日  戦闘停止命令が出された。(@家族は北安(ぺーあん)警務庁家族官舎へ同居・吉野さん宅)孫呉陣地にて武装解除、ソ連軍の捕虜となる。
8月23日  ソ連へ逆送途中「徒歩」黒河、神武屯付近にて脱走、夜のみ走行は北斗七星をたより北極星を背に、南へ南へ荒野を 進み北安街郊外に着いたが街は鉄条網で覆われ、付近には日本兵の屍が点々とし鉄条網の内側にソ連兵が・・
少し戻り北北安駅付近の農家で警察戦闘服と満人服を交換朝鮮人になりすまし、満人の教えにより北平安駅から貨車に潜入し北安に降りたち、訊ね訊ねて、正岡警務庁長の奥さんに見つかり、家の中へ引きずり込まれ食べ物を食べ、協和服を着せられて
9月7日  家族の待つ北安警務庁家族官舎へ合流。
10月2日 避難民となり北安駅から新京へ、途中北安駅まで、ソ連軍と満人達による首実験が延々とあったが夫は知り合いの満人警察官に付き添われて無事乗車できた。私達避難民は手荷物を多く略奪され、私も手荷物1個を獲られた。
新京駅から徒歩白菊町小学校へ収容された。小沢清子・静子さんと同室、ずっと一緒
10月16日  (「白菊町小学校」)次女 昌子 死亡
私は大同大街で“大福もち”やお菓子をリンゴ箱に並べて売って暮らしの糧として、
夫は、知人を探したり、糧を得るため南湖(なんこ)で魚等を釣って売ったが日本人狩りが
頻繁 にあり行動は制限された、そんな暮らしのある日、“王(わん) 影遊(けいゆう)”(満人警察官)の妻が子供を連れて大福を買いに・・アイヤー宮岸(ぐうがん)タイタイと抱き合った・・・
その日の夕暮れ夫は大同大街で1台の馬車(まーちょ)に向かって“王(わん) 影遊(けいゆう)”と叫んだ!!
“王(わん) 影遊(けいゆう)”は長春の南警察署長だった、その夜2人の警察官が私達を迎えにきた、王(わん) 影遊(けいゆう) 夫妻にご馳走になり、衣服と1000円(10円札)を頂いた3ヶ月暮らせた王(わん) 影遊(けいゆう)とはその後会うことはなかった、国府軍と共産軍の戦闘がまた始まった。
11月12日 (長春特別市安民区憮松路1104 )三男 清彦 死亡
21年 1月23日 (同上)次男 清介 死亡(子供3人はハシカと栄養失調、南湖の近く土饅頭の下に冷たく)
21年2月 夫は発疹チフスを患い、うわ言、暴力・・・と3ヶ月程続いたが、亡くなるまでこれの軽い症状はつずいた。
21年春は国府軍と共産軍の戦闘、王(わん) 影遊(けいゆう)はもう現れない、清衛は南湖で、えび獲り夫はフナ釣り、時には石炭を、陸軍官舎の床板を剥して、それを私が街頭で売り生活の糧とした、なんでもした、人だけ殺さなかった。
21年8月2日  突然、日本へ帰るぞ、新京駅に集まれ、リックを背負い、走った新京駅ヘ、無蓋車に乗せられて、振り落とされないように、ベルトで縛り、体を寄せ合いながら、胡芦島(ころとう)についた、しかし伝染病が流行り、10日間程アンぺラテント生活は苦しかった。
21年 8月15日  北極星が良く見える夜乗船して、すぐ船は胡芦島を出港(LSTリバテイ船)いい食事が与えられ、日本をしみじみ、味わった。だが上陸は伝染病のため内地を目の前に、船尾は死んだ人で行くこともできなかった。
8月28日   博多港上陸 夫は何故か、元の職、警察官にも郵便局にも復職できなかった。体も十分には回復していなかった様子でブローカーをしていた模様です。
22年夏頃、結核が発見され、仕事は時々、毎日ぶらぶらの日が続き、暮れに入院2回の手術でも回復はしなかった。
23年 1月21日  金沢市小坂町2の43番地  四男 洋生
26年1月26日           宮岸 清太郎 死亡  享年41歳
(国立療養所 医王園)

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