薪泥棒の生活と残酷なソ連兵
病気の子供達三人は何の手も施すことが出来ず死なせてしまい途方に暮れる毎日でしたが食べるための働きを止めることは出来ませんでした。
街頭での商売は、資本を使わずに出来る立ち売りは寒さのため困難となりました。このため、手っ取りはやくお金になる燃料探しを始めました。
元日本軍の官舎の床板が目標の薪燃料でした。元日本軍官舎は鉄条網が張り巡らされていましたが父がペンチやバリを調達してもらったおかげで、誰も入れないように出入り口は厳重に全部閉鎖してあり敬遠しましたがそれは解決出来ました。。
普通の箇所はペンチで鉄条網を切り中へ入り込み、もう一箇所を逃げる時のために鉄条網を切り落としました。
父はボクや母や小沢さんにもペンチやバリを渡してくれました。
父はこれ等の道具を吉野町あたりの露天商から盗んできたそうです、食べ物は警戒が厳しく見つかれば追われるが、こんな商品は隙を見つけてスーット掴み取れば苦労なく取れたそうです。
元日本軍の官舎は満人たちが中にあった日用調度品は物色済みであり、もう、すでに何も無くガラクタばかりが散らばっているだけでした。
母達は小沢の静子ちゃんを見張りに立てて、まず、畳をまくり、床板をバリバリとバリで剥がして1メートルぐらいの長さに揃えて背中に背負い易くする為には板を折る音が大きく大変苦労しました。
paste1.png床板には釘が沢山あり、買い手からは 釘を取れといわれ、背負うには怪我するので困りました。ボクが官舎一軒一軒隈なく探しノコギリまでも探してきました。ボクは色んな道具を沢山集めてきました。薪は市街地に入ると直ぐに売れました日本人も満人も蒙古人もソ連人も買ってくれました。薪泥棒は午前1回、午後1回のペースの重労働でしたがすぐ現金になりその日の糧の足しになり、私達避難民にはとてもいい泥棒商売でした。
私達が薪を売って稼いでいることが多くの日本人に知れ渡り、初めは良い商売?泥棒でしたが競争も激しく買い叩かれることも多くなってきました。
そんなある日、若い満人二人が母達が床剥がしをしている家に入り込んで来て私達女を近くに暖かくしてある場所があるから来いと強引に引っ張っていかれ、子供達を返せと迫ってきました。
母は下手な満語でもう二人若い独身の女性を連れてきたので、別の官舎を指差してやりました。
母達は彼女達と一緒に来たのではなく私達の後に付いてきたのは知っていました。
満人たちは母が指を指す建物へ入って行きました。私達はほうぼうの呈で逃げました。
次の日取り残した床板を取りに入ったら、また昨日の満人が入ってきました、万事急すと思いきや、ニコニコしながら薪を背負うのを手伝ってくれたのです。
きっと昨日指を指した建物で若い女達と出会いうまく事が運んだのでしょう・・・彼女達には幸いがあったかは定かではないが私達は助かり、薪の調達まで手伝ってくれました。
旧日本軍の官舎への薪泥棒の人口が増えてあちこちで官舎の中を歩く姿を見かけるようになりました。
女達だけです、男はソ連軍の男狩におびえて昼間は外へは出られない状況でした。
今度はソ連軍の二人に捕まりました、そして、手を引かれて官舎の入り近くの立派な建物へ引きずり込まれました。
子供は返せと着ているものを脱げと言われたが寒くてだめだと拒否して、子供を連れて帰り赤ん坊に乳を飲ませて暗くなったら又来ますと身振り、手振りで納得させて、風呂場へソ連兵を連れて行き、水を入れて沸かしてほしいと頼みました、そしてソ連兵にも風呂へ入って身体を綺麗にしてほしいと頼み子供に食べるものかお金が欲しいとねだり、赤い軍票30円を貰った記憶があります。
そして無我夢中でそこから逃げ出しました。
t.gif鉄条網は罪人を収容するものかな?次の日若い女が10人程射殺されて、鉄条網の付近にあちこちにさらされていたそうです。きっと、私達の仕返しにされたのでしょう。

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