石炭堀り
清衛はこの間石炭堀で私達の生活の日銭を稼いでくれました。小沢さんも清衛が石炭堀に連れて行き沢山稼いでいたようでした。清衛は夫の高熱があった2週間程の間に3回程帰ってこない日がありました。夫の暴力が怖かったのと満人の鍛冶屋の手伝いを頼まれて泊まっていたそうです。
img_27.gif昭和59年にはまだ猛家屯駅でした。 今は南長春駅です。 あの鍛冶屋はこの駅の向い側にあったのだが…きっかけは、石炭を売りに行き良い石炭であり、買ってもらい、吹子(フイゴ)の風送りを手伝わされ、泊り込んだとのことでした、丁度満人の小僧が休んでいたことと、清衛が倒れた電柱から引き抜いた電柱へ登るための足場釘に焼きを入れてタガネのかわりに石炭を掘りやすくするため、満人の鍛冶屋に焼入れを頼んだことで鍛冶屋の満人と仲良くなったそうです。帰る日には食べ物を沢山、父や母にと持たせてくれました。豚肉の固まりを沢山貰ってきたこともありました。
鍛冶屋は猛家屯駅前で南新京の次の駅、現在は長春南站になっていたそうです。
良さそうな石炭が沢山掘れたので重たくてソリがなかなか引けなくて近くの鍛冶屋へ石炭を売りに入った。
日本人の少年(小孩)だったからか、からかい半分に、石炭を見に出てきたら高級な群青色の無煙炭だったので買ってくれた。
img_28.gif2~3日泊まったが、石炭を積んである山を平らにして、 板を敷いてくれたので、炉の暖かさがあり 外は零下20度でも毛布だけでも暖かだった。無煙炭は煙が出なく鉄を熱するのに最適だったのでしょう、半分壊れそうな、ソリの中の石炭と上に積んでいた麻袋(南京袋)の石炭も全部買ってくれた。 おまけに暖かい万頭も貰い、炉の近くで食べながら、手まね足まねの満語と日本語で話していると、吹子を手伝ってくれと、頼まれて、私は力をこめて吹子を押した。火力が強くなると満人は真っ赤に焼けた鉄をトッテンカン、トッテンカンとリズム良く叩いていた。私も 自然に“仕事に精出す村の鍛冶屋”と歌っていた、満人もニコニコ笑いながら仕事の調子を上げていった。
満人の手隙をねらって、タガネの代わりに電柱の足場釘を熱して金槌で叩き水の中にジュと漬けて冷やして、焼きを入れた。
満人はそれを見て、私の手をとりながら、焼入れの仕方を教えてくれ、色んな大きさのタガネを5本程作ってくれた。これで石炭を掘る効率が良くなると思いとっても嬉しかった。
タガネは石炭が小さく壊れないように取り出すためであり、足場釘だと焼き入れしていないために、先が直ぐに丸くなり、石炭を屑にします。大人達はツルハシで掘るために、石炭が屑になり商品価値が小さくなっていた。
満人の仕事が一段落したときに、奥さん(タイタイ)が食事をしましょうと呼びに来た。外は、赤い夕日が落ちて暗くなっていた。満人に背中を押されて隣の部屋に入り食卓に座り、夕食をお腹いっぱい頂いた。
主食は米でなく高粱(キビ)を白く精米したもの、菜単(おかず)は豚肉と野菜を炒めたもの、お汁は骨の入った汁にワンタンの様な緬や野菜が入っていた。
もう一つ漬物があったが、辛くて食べられなく笑われた。
この時代食べ物で満腹した覚えはこの時だけだったかもしれない。
外は真っ暗、満人は泊まれと言い、仕事場の炉の近くに板を敷いて毛布を持ってきてくれた。
猛家屯駅の石炭堀場には引き込み線が沢山あり、車両修理場(屋根あり)、大きな倉庫も沢山あった。
img_30.jpg石炭は自然に埋設されている物ではなく、線路の引込み線を造り石炭集積場を作り、撫順炭鉱等から運び野積みにして、ある程度石炭を種類毎に分けて山積みしていたのです。  終戦近く、日本軍が物資置き場にするために石炭を使い切り、50センチから1メートル 猛家屯駅の石炭堀場には引込線が沢山くらい土盛りをしたと後日満人の踏み切り番人に聞きました。 石炭堀場へは猛家屯駅の南新京駅寄りの踏み切りを渡り、沢山ある引込み線の最外側の広場の下の、ある部分に滞積・埋設された石炭があったのです。
土盛りの下に石炭があるため、戦場の“たこつぼ”のような穴を掘り、上土を取り除き、石炭を掘り出すのですが、土は固く凍り付き石炭も水分を含んでいれば、一度掘削された石炭でも石の塊と同じ硬さです。
子供が凍りついた上土を取り除き石炭を掘ることは不可能でした。私は幾つかの“たこつぼ”を覗き込み、反対側を掘らして下さいとお願いするか、誰も入っていない“たこつぼ”を探して石炭を掘りました。でも石炭には質の悪い石炭はお金になりません、良い石炭を掘ることは大変なことでした。
ソ連軍は猛家屯駅に常駐しており時々石炭堀りをしている、私達を威嚇して追っ払い、日本人の男狩りや女を略奪するので、空の“たこつぼ”が多くなり私達子供にとっては、幸いでした、ソ連兵といえども子供に関しては寛大でした。
img_29.jpg此処で掘れた石炭の種類は主に、瀝青炭(れきせいたん)と亜瀝青炭で蒸気機関車や家庭燃料に適したものが多いようでした、しかし、無煙炭(むえんたん)もありました。 瀝青炭は黒光した、まさに黒いダイヤでした。亜瀝青炭は黒くはあるが、光沢はすこし少ないようでした。 なんといっても、無煙炭です、群青(ぐんじょう)色をしており、なお光沢を放っていました。良い石炭とは美しいものです、まさに黒いダイヤモンドです。
09-2_2.jpg蒸気機関車が時々引っ込み線に入って来ました、機関士か助手が石炭をスコップで私達にすくって投げ捨ててくれました、たぶん日本人の機関士でしよう、あり難いものでした、石炭を掘らなくて拾うだけですから、これが本当の天からの恵みでした。 母達はあまり猛家屯へは行きませんでした、なぜならそこには、ソ連兵が常駐しており、男は使役のために捕まえて元気の良いものは、ソ連ヘ送り、女達は慰みものにしていたようで、あまり近寄らないようで、でも大きく変装して、お化けのように石炭粉を灰と練り合わせて顔に塗りたぐり、ぼろぼろの外套を羽織り、男が近寄れないように変装していたが、それでも捕まった女がいました。
09-42.jpgソ連兵は満人の女も日本人の女も区別がつかないらしく満人の女も捕まえていた。 石炭堀に来ている人々を10人ほどのソ連兵が取り囲み全員を一箇所に集めて男、女、子供に分けて男は一人ひとり身体検査をして、使役に使える人、使えない人は釈放、皆んなの足元をマンドリンで威嚇射撃をして追い払い、女たちも身体検査をされて、あらゆる女の身体をまさぐり、何人かの女は釈放され、あとは、何処かへ連れ去られ残りの子供は、しっしっと銃の台尻でこつかれて追い払われた私もその一人でした。 皆が去った石炭堀場には残した石炭や道具が捨ててあった、その良さそうな石炭と使えそうな道具をボクが貰って帰ったのです。
石炭堀りのある日またまた、ソ連兵に捕まり手を上げて穴から出て行きました。
ソ連兵は3人だったと思います.
ソ連兵は私達を元日本軍の大きな倉庫に連れ込む途中、ボクに女はいないのかとボクに身振り手振りで、頭の髪の毛が長い、お尻りが大きい女はと・・・
握りこぶしで親指を中指と人差し指の間にした仕草をしてにやにやとし、ボクに示しながら尋ねたのです。
新京駅と反対方向に線路づたいに遠く走って行く女達を指差し教えたとろ、バリバリとマンドリンで威嚇射撃をしたが遠くて、効き目はありませんでした。
そして私の頭をなでてくれました。
体育館のように大きな空っぽの倉庫に捕虜全員を集め身体検査をし、時計など何かを差し出した男達と、見るからに身体不自由者と年寄りと子供は追い返していました。
私も追い返されシッシッと言われたが頭をなでてくれたソ連兵の袖を引っ張って倉庫の一角に大豆かトウモロコシを山積みしたものに指を指して、持って行っても良いかと手まねで荷物をかつぐような仕草ををしたところ、持って行けと判断出来たので、行ってみると大豆の水分を含み大きくなった凍り付いた物でした。
でも上の方によじ登ってよい部分がないかと麻袋(南京袋)を石炭堀の先の尖ったタガネで破り中身を確かめたら、食べられそうな大豆がまだ沢山あり、大きな麻袋の大豆半分以上を捨てて持てる量を持って、急ぎ石炭堀場に戻り、石炭堀の穴に隠し又倉庫に戻り、大豆を3~5回ほど運び出しました。
img_31.jpg小沢小善治画伯(元黒河特務機関、政府委任官)捕らえられた大勢の男達は倉庫から別のところへ連れられて行かれました。 誰も居なくなった倉庫には怖くて大豆を取りには怖くて行けませんでした。 その日は戦利品をソリで引いて威張って帰りました。 大豆は母達が美味しく煮てくれたつもりだったのでしようが 砂糖もなく塩味だけだったと思いますが、栄養にはとても役たったと思っていますしかし衰弱した、清介や清彦達にはもう消化する、体力はないようでした。
次の日、父、母、小沢さん、静子ちゃん皆で大豆を取りにゆきましたが倉庫には鍵がかかり、入れませんでした。
でも大豆と捕虜になった人たちが掘った石炭を私達が沢山ソリで引いたり担いで帰りました、思わぬ大量の収穫がありました。
猛家屯駅の石炭堀り場のソ連兵に幾度も捕まるとソ連兵が暴挙をする日が読み取れるようになり、父も母も連れて石炭堀に行くようになり、もしソ連兵が現れたら石炭を掘った穴に身を隠せるような場所を見つけておきました。
穴は迷路のようになっており、また捕まるのを恐れた石炭堀は敬遠されたのか沢山の空きがあちこちに、出来ました。
石炭堀の道具は満人の鍛冶屋さんに作ってもらい、石炭堀りの効率は父,母、小沢さんたちは他の人たちに比べて格段の差がありました。
今度は新たに石炭を買ってもらう家を探す苦労が増え、考えたのが石炭の「焚きつけ」、石炭はマッチ一本では燃えません、この焚き付けを、おまけに、各家毎に訪問販売を始めました。
「焚きつけ」は母達が元日本軍官舎から剥ぎ取った、床板を割り箸のように細くしたもの、街路樹の枝の分かれた部分を切り裂き、油部分を細くした物でた。 石炭の売行きは少しは良くなりましたが、隠れ家の外階段の下には石炭が売れ残り収入はすくなくなりました。
ある日私一人で石炭堀に出かけました。
img_32.jpg駅構内で蒸気機関車がエンジンオイルと思われる油を線路上に大量に垂れ出し、その油は直ぐに固まり、枕木と枕木の間に凍り付き光っておりいかにも、燃えやすそうに見えました。 石炭のように固まった油をタガネで掘り起こして持って帰りました。 燃やしてみると猛烈に強く燃え上がり、火力を強めたり、焚き付けに、とっても便利だと分かり皆で、石炭を売る時のおまけにして、石炭を値下げしないで、売りまくりました。 噂は噂を呼び、私達が石炭を売りに行くと買った、近所の家にも良く売れ、父も沢山の石炭を掘り私は、凍りついた油を、他の人に悟られないように砕き掘り土で隠しておきました。
でも氷が解ける4月頃には油は解けて地中に吸収されて黒い痕を残して消えてしまいました

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