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祖国、日本へ 新京~葫蘆島
魚売りの商売も軌道に乗り出した。魚の仲買人の様になっていた。ボクは満人のシャオハイ達と浮浪児になって遊んでいた。
日本人は日本へ帰るんだろうとか、あんたも日本へ帰るんだろう・・・小学校の日本人は日本へ帰る用意をしているとの噂を満人に聞いた。
また、日本人からは何時でも出発出来るように用意をしていなさいとの通達があったと聞いたが、何時ものデマだとあまり気にもとめずにいた。
小沢さんも日本へ帰る汽車が出ると聴いてきたので父は魚釣りを中止して、黒河の人たちが集団で生活している学校へ聞きに行くと明日出発だと聞き、日本人会へ行き聴いたところ黒河からの人は明日の汽車に乗ることになっているとのことでした。
困ったことになったボク(清衛)がいない、夕べも帰らなかった今晩帰らなかったらどうするか。
父や母が夜半まで猛家屯駅近くの踏み切り番の家や鍛冶屋も訪ねたがボクは居なく、日本へ帰るからと頼んだり、若し私達親が日本へ帰った後に現れたら日本人の所へ案内してくれるように頼んだそうです。
官舎の管理人には日本の住所まで書いて渡して日本へ帰れるように手はずを頼んだとか。
若し日本へ帰れなかったら育ててくれないかとも頼んでいたそうです。
狭い日本へ帰っても食べる物も無く子供は餓死してしまうかもしれない。
アメリカ軍はソ連軍より獰猛で男は奴隷に、女はアメリカ軍の慰みものに、子供はアメリカへ送られて畑仕事の奴隷に、女の子はメイドにされて親子バラバラになるのだったら、ボクは中国の大地で生きていけばいい。
もし、日本で生活が出来るようだったら連れに来れば良い、が親たちの考えであったようです。
現実は残留孤児になった子供達が事実を語っています。
噂は共産軍が来れば帰国出来なくなる、ハルビンは共産軍に占領されているらしいとの情報が乱れ飛んでおり真実は分からなく、ただ明日帰国列車が南新京駅から出るから正午に集合の伝達があったそうです。
持ち物の制限が沢山ありリックサックに冬物は必要なのか、暖かい内に日本へ帰れるのかそれとも、そのままアメリカまで輸送されて奴隷になるのかが一番心配でした。
汽車は無蓋車でした、屋根が無く周りの景色も見えずただリックサックによしかかり黙って眼を閉じてうつろな表情をしている大人がほとんどでした、子供達は八割ほどが死んだそうです。
img_56.jpg高い無蓋車に乗り込むのは大変な重労働、女・子供や老人には難題でした。
小沢静子ちゃんが生きていたのを皆は羨望の眼差しで見ていたそうです。
ボクを新京に残して引き上げ列車に乗る。
母和枝は93で亡くなるまでこの事を語らなかった。これらは小沢清子さんから聞いたものです。
黒河から北安への途中空襲に合った時、昌子(次女)を養女にと願っていた老夫婦は収容所で二人とも亡くなったそうです。
昌子はやはり生きる運命になかったのかなぁ・・とあの時代生きることの困難さを思い出します。
汽車で一番困ったことは、小便・大便でした。バケツは貨車に二つ誰かが持ち込んだものかありました。男の小便はバケツで女性もバケツで出来ましたが大便となると、困難な姿勢は体の弱ってる人には過酷でした。
連結器では絶対に大小便はしてはいけないと通達がありました、でもどうしても汽車が走ってる時にした人の中に滑って落ちて死んだ人もいたそうです。
汽車は駅でない所でも止まり、そんな時皆一斉に飛び降りて用をたすのでしたが、遠くまで行き過ぎ汽車に乗れなかった人もいました。
また汽車が止まるたびに金品を提出してほしいと、要求があり、その度にお金を出しました。
日本へは1000円以上は持って帰れないとの通達もありお金持ちの人は沢山出していたそうです。
汽車は省や県を通過する時に通行税を支払う為に金品の要求があったと聞きましたが、馴れ合いの馬賊や匪賊との噂もありました。
バケツに溜まった汚物は汽車が止まったり動く時にしぶきを上げたのには往生したそうです。
img_57.jpg父はナイフで貨車の床の隅の板の一角を切り落として穴をあけて汚物は直接線路に落ちるようにしました。それは貨車の先頭付近でした。後方だったら、後ろの貨車、又は連結器に汚物が飛散し付くのを防ぐ為でした。
この一つの穴で大・小便で困難を感じた人はいなくなったそうです。
遅々として進まない引き揚げ列車の乗客は雨にも寒さで苦しめられ、食料は、途中列車が停車するたびに、売りに来た満人から買い求めたがべらぼうに高く一週間の列車の旅でお金を食べ物と金品の要求に使い果たしたそうです。
途中死人が出た時には男の人達が線路脇に穴を掘って埋めていたそうです。
私達宮岸・小沢も使い果たしました。だんだん下痢をする人が増えて便所の清潔さを保つのに苦労しました。
その一つにレンガを、貨車の床を切り抜いた穴の周りに置いて、今日のよう椅子式洋便になり座ることが出来て便所の苦痛は取り除かれたようでした。
貨車から食料やお茶・お湯(開水)を買うのに貨車の上から身体の乗り出して、下からは商品を頭の上に載せて値段の交渉、商品を受け取れずにお金だけ取られた人もいたとか。
6日目に貨車から降ろされ長い道のりを歩かされて、アンペラやムシロを敷き、葦で囲まれた収容所に入れられ回りは鉄条網で包囲された砂地の場所でした。
食事は朝と晩の二回、コウリャン(キビ)に野菜を入れたお粥でした。
鉄条網の外には物売りが沢山きていたがお金が無くほとんど食べ物は買えなかった。ただお腹をすかして一週間も収容所にぐったりと寝ていました。
そんな時、宮岸さんはいませんか、宮岸さんはいませんか、と遠く方から声が聞こえてきました。
宮岸さんはビクツとして小さくなり身を縮めました。
ソ連のGPU(ゲーペーウー)か、国府軍の官憲と思ったのです。
偽名で「安田」となっていましたから、返事をしませんでした。
近づいて来る人を見るとなんと、協和服の人に手を引かれた清衛ちゃんです。
宮岸さん夫婦は手を広げて涙を流していました。
清衛ちゃんのリュックサックからソーセージ、干し肉やカンパンらしき食べ物が出てきて皆でこんな美味しいものは無いとむさぼり食べました。
この日夕方船に乗りました。LST船でした。
船底はエンジンと波が船の鉄板を叩く波の音でやかましく話しも出来ない状況でした。
皆大陸の疲れが出たのかよく寝ていました。途中死んだ人は水葬に、船が停泊してからは船尾にお棺に入れて積み上げていました。
日本の国土を目前に亡くなった方々は幸せだったのでしょうか、いや残念至極だったことと思います。いや満足して日本の国土に抱かれたのです。
日本の島々は緑色、ジャングルが続いているような緑の美しい国でした。
ddt.jpg上陸するとDDTとやらの薬剤をマスクを付けた怖い人に頭から吹きかけられ次はシャツの中へそして、ズボンの間からも、船では優しく船員さんが丁寧に消毒してくれたのに日本の人は怖かった。
鉄の船は音が響いた甲板の上の色んな音、階段を上る、下がる音。海の水と船の鉄板と、擦る音等。満州の歴史を消している音でした。
LSTリバティ船(アメリカの上陸用舟艇)は鉄で出来ており船底への階段も全部鉄で出来ていました。
階段を上がり降りする人たちが良く見えたが、階段を上がり降りする人たちの足音も大きかった。
父は船員達を誰・彼なく捕まえて日本国内の状況を聴きまわっていた。
その内容は概ねこうだった。
南の方でアメリカ軍やイギリス軍の占領地域では、一般邦人はもう日本へ帰えされたそうだし、男も捕虜になったが昨年の内に返され、玉砕した地域の軍隊は武装解除され戦場掃除をさせられて日本へ返され、アメリカ本土へは連れて行かれなく、女も占領軍の娼婦にさせられずに日本へ帰されたそうだ。
日本を占領したアメリカ軍は強盗や略奪や強姦等はほとんどしなく、子供達にはキャンデーと言うオヤツを与えたりして、遊んでくれたりして怖くはないそうだ。
アメリカ軍は野蛮だと聴いていた私達にはソ連軍の野蛮さは十分に知っているので信用にならなかった。
大人達はある程度胸をなでおろしているようだった。
父はこれまでの偽名の安田を宮岸に訂正したそうだが、博多湾で長く一週間程も伝染病が発生したので細菌検査の結果がでるまで停泊していた、アメリカ軍人を乗せた船が近づくたびに、ソ連からの手配でアメリカ軍が尋問に来たのかと、父はびくついていました。
船で死んだ人たちの白木の棺桶が船尾の方に毎日積まれて増えてゆき甲板も狭くなるほど沢山の人が死にました。
日本の国を自分の目で確かめ安堵してやすらかに死んだ人、一目日本を見て死にたかった人、一目日本を見てから死ぬぞと決めて死んだ人たち、今私は故郷日本とは、外地で生活した人でないと、わからない郷愁があるものだとつくづく感じています。
それは童謡“ふるさと”の中に込められている。緑したたる美しき大地、日本。
水葬された方もいた。さぞ日本の国を一目見たかっただろう。
大きな板切れに乗せられて、綺麗に身体を白い包帯で巻き整えて、船員達とそこに居合わせた人たちがお祈りをすませると。4人の船員さんが船の手すりに板切れを置き静かに板切れを押し出すと死体は滑り落ち海中へと沈んでいった。悲しく哀れな時間だった。
待ちこがれて上陸しただろうが記憶には無い、汽車に乗った、客車だった小さな汽車だった。
車両と車両の連結器付近は大きく揺れて脱線しそうだと怖いとボクが言ったことが、母は終生言って笑っていました。
博多からどれだけ時間が掛かったか定かでないが、汽車が停車するごとに大学生が引揚者の皆さんご苦労様でしたと大きな声で私達をねぎらってくれて、又今、日本の置かれている現状を語っていました。
ご飯を存分に食べさせてくれた記憶と大学生の熱弁は何処の駅で停車した時にもあり日本は力強い国だと思た。
金沢駅に着いたら親戚の人3人が迎えに来ていました。人力車に乗せられ街の中を田んぼの田舎道を眺めていた。ここが故郷でした。(終)

赤い夕陽の満州が原に眠る弟妹よさようなら。

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