8月9日ソ連日ソ不可侵条約破棄
昼頃父は匪賊討伐に行くような戦闘服で正装をして刀帯の赤刀吊を誇らしげに、馬に跨り、息を切らせて駆けてきて、家に入るなり私達を座らせた。
そして云った。
「ソ連軍が攻めてくるから最小限の身の回り品を持って午後四時迄に黒河駅へ行き警察官の家族と行動を共にしろ、そして、新京の安田家へ行け、安田が居なかったら、南へ行け、日本へ一歩でも近かずき日本へ帰るのだ、俺は後になるか、先になるか、わからないが、必ず日本へ帰るから、何がなんでも日本へ帰れ!!」
「隣り近所へも知らせろ、持ち物はお金、貯金通帳、債券と雨具と、出来るだけ沢山の握り飯と米、それ以外は持つな。」と。出掛けに父は、「俺は召集で孫呉の部隊へ入る命令を受けたからな!今から省長の家族に知らせてから役所へ行く」と言いながら、馬を蹴り駆けて行きました。
_2_8.jpg昭和20年8月9日午後黒河街高台の南崗屯、 日本人住宅から黒河駅への近道を急ぐ、 女と子どもの集団の逃避 行が始まった。ボク(長男清衛十才)は百日咳でやつれており、リックサックにカッパとおにぎりを少しだけをやっと持たせてもらっただけでした。
清介(次男六才)と昌子(次女五才)には着替え等沢山背負わせ、清彦(三男二才)はやっとお話が出来る二歳、着替えを二~三枚背負わせ歩かせました。
黒河駅発午後四時の汽車に乗るため
近所の人達と誘い合わせて黒河駅へ通常の道路でなく、近道の平原の草の少ない丘の一本道を長い列で急いだが、小さい子供の足ではままになりませんでした。
左隣りの佐々木さんは子供が四人あり、(六月に生まれた男の子、ヨチヨチ歩きの女の子と、女の子二人)皆で助け合いながら黒河駅に着きました。
黒河駅は人があふれてホームへ入るのが大変のようでしたが先頭からはぐれない様に子供たちも手を固く握りしめながら群衆の中をかき分けて歩きました。
満人の警察官に引率されていたようでした。
発車は午後六時、私達家族5人の座席は三等車の一ボックスが確保できたが、ボクはぐったりと横になっていました。
_2_9.jpgソ連軍の攻撃から逃れるため、客車30両以上も連結して黒河から南下。日がどっぷりと落ちたころ黒河街の空が赤々と燃えて、満州帝国の落日をみているようで、追われている日本人の情けない姿がやるせなかった。ずいぶん待たされて汽車が出発したのは午後九時頃でした、真っ暗になった外を眺めていると黒河街の空が赤々と花火を散りばめた様に燃えていた。
汽車がだんだん遠ざかると、遠く遥かな赤い炎は”満州の赤い夕日”;が大平原に落ちるように、満州国国家の落日を見ているような思いでした。

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