昭和二十年七月一日小沢小善治(満州国政府委任官、満人服)は漠河へ偵察

漠河警察にて小沢小善治(満州国政府委任官、満人服)は長文の暗号電文(満州国警務庁の乱数表に工夫を加えた)(関東軍の乱数表は解読されていると考えて)を黒河警務庁長あて無電担当宮岸清太郎に送信した。
その内容はアムール河の黒河港から船(外輪船)で漠河まで一週間の行程から対岸のソ連の状況を報告したものでした。

アムール河のソ連側には、いたる所でトーチカの構築が双眼鏡越しに見え隠れして、ソ連兵が働いている様子が手にとるように見えました。
特に漠河の少し手前のアムールスカヤではソ連極東第二軍の機械化部隊と思われる戦車軍団とカチュウシャ砲部隊(ロケット砲)を目の前に見たとき背筋がぞっとしたそうです。
もう一つ忘れられない光景は、アムール河のアムールスカヤより下流のソ連側の断崖が所々赤い炎を上げて燃えているのを見て石炭の豊富さに目を見張ったとか。

小沢さんは、それから10日間程かけて漠河からオロチョン族の居住地を陸路、馬やマーチョ(馬車)や徒歩で黒河へ帰り村井黒河省長や正岡警務庁長にとりあえず、口頭で報告したそうです。
その時点で新京の特務機関本部へ転勤となりました。「小沢さんの奥さん(清子)と  娘(静子)さん(小学一年)は黒河特務機関が責任を持って新京へ送り届けます。」と云うことで十二日には列車で黒河を発ちました。


2.jpg無線通信機の電健。 父は、金沢郵便局時代の技術でトンツー、トンツーの暗号を扱っていました。宮岸(父)は黒河警務庁無電室勤務(警佐)主任(主な仕事は無線の防諜、探査調査、暗号解読) で勿論小沢さんの転勤は知っていました。他にには内緒でした。
しかしながら、ソ連が攻めてくるかも知れないとは、日々、口癖のように言っていました。
 無線通信機の電健。
父は、金沢郵便局時代の技術でトンツー、トンツーの暗号を扱っていました。

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そんなある晩遅く

八月初めだと思いますが日本軍の戦車二十両程と野砲無限軌道車十数両程が轟音をたてながら我々が住んでいた南崗屯の住宅の横の道路を南下し二時間程で通過していきました。
1.gif画:小沢 小善治  画家、小沢小善治さんは昭和31年((1956) ソ連軍から釈放され帰国、画家で生計をたてて 平成18年1月90歳で生涯を閉じました。
小沢さんが言っていました、これが満州における在留邦人を遺棄状態にした日本軍撤退の初めだったそうです。
興安鎮はアムール最上流地点の「漠河」より 34KMに位置し北緯53.2度、東経 120.4度。   
満州領は原野でソ連領は170Mの絶壁断崖の 石炭でありところどころ赤く燃えていた。





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